能WSの発表と「巻絹」
公開日: 2015年12月13日日曜日
9月からはじまったワークショップの成果を発表してきました。能の所作のひとつひとつは単純に見えるもので、40人以上いた参加者の全員が一通りはできるようになっていました。
しかし、能楽師のそれとは質が全く異なります。
単純に見える動きのひとつひとつを、一体どれほど繊細に訓練してきているのかと恐ろしくなります。
不要なものを削ぎ落として夢幻に至る、究極のシンプルさが能には詰まっています。
能楽師の際立った存在感の秘密が少しわかったような気がしました。
発表会の後は辰巳満次郎先生の舞う「巻絹」を拝見。
圧巻。
能という芸能が長きに渡って生き延びてこれた理由は、まず圧倒的にそれが面白いからなのだということを痛感しました。
プレーヤーのひとりひとりが高い技術力を持っていて、囃子方の音、ツレ、シテの舞や謡など、それ自体が楽しいものなのですが、場の中で調和が生まれていく過程はとても刺激的で、まるでジャズのセッションのようでした。
空間に統率された感じが無かったので、終演後に「能の公演を行う際に演出家はいないのか?」と先生に訪ねてみたところ「いない」という回答でした。
それぞれのパートが自分のやることをやれば作品ができるのだそうです。(シテ方がある程度のイニシアチブを持つということはあるそうですが)
だから各パートからの主張があったり、時にはケンカのようなことが起こったりもするのだそう。
能すごい。面白い。
「巻絹」のあらすじは、帝の命令で絹を届ける道の途中で、使者は音無天神に咲いている梅を見て歌を詠んでいたために期日に遅れ、縛り上げられてしまいます。そこに音無天神の霊が降りた巫女が現れて事情を説明します。「そんな賤しいものに歌など詠めるはずがない」と疑われますが、使者に上の句を詠ませ、巫女が下の句を続けて、それを証明できたために無事に使者の縄はほどかれる、というものでした。
「こいつはバカだ」などと決めつけかかることはないだろうか。インターネットが普及し、ツイッターやら何やらで人格を攻撃する言葉が飛び交うようことが日常茶飯事になった昨今、人に寄り添う気持ちや相手を思いやる想像力がもう少働かせる必要はないか。誰しもが自分の中にも音無天神の霊を抱かないといけない。
そんなことをシテが舞台の正面にずずずと迫ってくる時に思いました。
いつかお面つけて舞ってみたいなぁ。
発表会が終わってから、さらに能への欲が湧いてきています。
先生からもらったシール。ちょっと自慢。

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